La nuit à Paris

スウェーデン視点です。 dn.se


ノルウェーの連続テロ事件は、
ネットや従来のメディアで激しい倫理的論争を巻き起こしました。
最も白熱した議論のひとつは、
メディアによって男が扮装した姿やマニフェストといった犯人の見解を公開することは、
共同作業者になりうるのではないか、というものです。


メディアの役割はある出来事を伝えて、何が起きたのかを説明することにあります。
あのような悲劇の場合、
発生した事実を伝えることだけでは問題を解決できるものではありません。
メディアは犯人のひととなりや犯行の動機を記述する必要があります。
このような説明が為されなければ、
歴史のなかでは単なる不可解な犯行で終わってしまいます。
実際に私たちは既に加害者が偏向した独自の世界観、
イスラームは悪であり、そこから我々を救う唯一の手段が暴力である、
という思想を抱えていたことを知っています。


この連続テロ事件の特徴的な点は、
犯人の目標が官邸爆破や殺人だけではないことが事件後に明らかになったことです。
男は動機の役割を担う殉教者に自らを重ね合わせ、
これがイスラームとの戦争の第一歩になることを期待していました。
つまり彼はマニフェストを練り上げ、イメージを作り上げていたといえます。
このような事実があるなかでそれらを公開することはある問題が浮かび上がります。
メディアは犯人との共同作業者になりうるのではないか?


個人的な意見とすれば、
情報が乏しい事件発生直後の段階で男の写真を公開することは正当であったと思います。
しかし現在ではどうでしょうか?
犯人の加工されたイメージを掲載しようとする編集部を思い浮かべてみましょう。
彼らはテロリストの思うつぼだとして掲載を見送ることも可能です。
ただしこれは非常に疑わしい動機にもみえます。。
それでも彼らはテロリストの願望を広めることを阻止するために
ジャーナリストや出版社の役割を放棄するのです。


一方でこうした質問も投げかけられます。
「悲劇の理解を深めるためにと写真を公開していますが、
果たしてそれが公共の利益になりうるのか?」。
おそらく答えはNo.です。
写真は既に世界中で公開されていて、現在でもその数は増え続けています。
おそらく犯人もメディアが繰り返し公開することを理解していたはずです。
たとえば記事で彼の人格や自己イメージを扱うとすれば、
顔写真を公開することは合理的だといえます。
それ以外の場合では、
メディアは特ダネとして撮影した写真の公開は見送るべきです。


Pressombudsmannen(PO,プレスオンブズマン)の意見です。

La nuit à Paris / France Gall 1977年